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離婚が成立しました

小口です。

離婚調停を経て裁判が続いていましたが、先月、東京高等裁判所が相手方の控訴を棄却して、離婚が成立しました。
離婚届を提出して、子どもたちと一緒に両家のお墓へお参りし、離婚のご挨拶と、子供たちと会わせてくれたことのお礼と、これからも子どもたちを見守ってほしいというお願いをしてきました。

事務所HPのブログでそんなことを書くのは…という向きもあるかと思いますが、元夫と一緒に事務所をやっていた関係で、多くの方を巻き込んでしまい、ご迷惑をお掛けしたままお会いする機会がなくなってしまった方もいらっしゃるので、このような形ですが、ご報告とお詫びを申し上げます。

それに、社労士としてもカウンセラーとしても、今回の経験がこれから仕事をしていくうえで本当に貴重な経験になったと思うのです。

 

子どもたちにとって、そして同時者皆にとって、これからどうしていくのが1番いいのか。裁判ではそういった審議をしてもらえるのかと思っていましたが、収入がいくらか、ある事柄が始まったのがいつなのか、子供たちが現在どちらで生活しているのかなどについての「客観的な資料」のみで判断され、それ以外の事をいくら陳述書に記載しても、なかったものとされてしまう。
正直、「血が通っている」印象は受けませんでした。(※あくまで個人の印象です)

裁判中、色々なことを考えました。
人が人を裁くというのはどういうことだろうか。
そもそも、離婚という問題を裁判に委ねること自体間違っているのだろうか。
裁判に「血が通っている」ことを期待するのは、子どもの頃、毎週「遠山の金さん」を観ていた影響だろうか…?

私の仕事の1つでもある労働相談もそうですが、「客観的な事実」を、法律や判例にあてはめるだけなら、AIでもできる。
法律や制度で救われる人もいれば、逆に絶望する人もいます。それは、その法律を扱う「人」によるところが大きいということを実感し、法律を扱う社会保険労務士として、自分の在り方を省みさせてくれる機会になりました。

 

1年ちょっと前からほぼ1ヶ月に1度、東京で、良心を基にした経営を志す社会保険労務士のお仲間(そうそうたるメンバーなのでおこがましいですが、敢えてそう呼ばせていただきます)が集まって、陽明学研究の第一人者でいらっしゃる難波征男先生の講義を賜りながら、陽明学を学んできました。
陽明学では、人は誰でも良知(良心)を持っており、その良心を発揮することを「致良知」だと説くとともに、「事上磨錬」ということも説いています。
「事上磨錬」というのは、いくら本などから知識を学んでも、何か事が起こった時には役に立たない。日々の生活や仕事の中で「事」に当たって心が揺れを感じた時に、いかに良心を発揮できるか(いかに良心に戻れるか)、修養していくことです。
今回の経験は、正に自分にとって事上磨錬の機会でした。
離婚成立とほぼ時を同じくして、この講座を修了したことも、何か意味があるような気がしています。

 

3年半前、離婚することが急に決まり、「これからどうするのか?」をすぐに決断しなければならない事態になった時、子どもたちも小さいので、何処かにお勤めした方が収入的には絶対いいのですが、もしこれだけ困難な状況からスタートして事務所を続けることができたら、安定志向の若い方や女性に勇気をもってもらえるのではないか…と、勝手な使命感で事務所を移転独立開業しました。
そこから、本当にお金がない状況を経験して、仕事をして「お金を頂く」ことの有り難さが身に沁みてわかりました。
子どもたちと過ごせなくなるかもしれないという不安を抱えたとき、家族との何気ない日常が、本当に幸せだと感じることができました。
元夫の家族を含めて、周りの方々や地域の方々、そしてもちろんお客様のお蔭で今まで働いてこられたこと、現在も「働けていること」自体、大変有り難いことだと実感することができました。
多くの方から励ましのお言葉を頂き、自分は孤独ではないということ、支えてくださっている方々への感謝を感じ、何より、人は感謝を感じている時、同時に幸せも感じるものだということを実感できたことが大きかったと思います。
「幸せ」というと大げさなような感じもしますが、今私が感じているのは、「じんわりとした温かさ」とでもいうのでしょうか。

この仕事をしていると、そもそもその法律ができたのは何の為か、という目的がなおざりになってしまって、「権利」だけが一人歩きしてしまっていること、「権利」を「お金」に換算しようとする傾向が強くなっていることを感じます。
いくら「権利」を「お金」に換えても、「じんわりとした温かさ」は感じられないのではないだろうかと思うのです。

 

こうなることが薄々分かっていたのに結婚という選択をした原因は、自分の生い立ちにも関係していると思いますが、当時、自分自身を信頼していなかったためというのが大きいと、今でははっきり分かります。
(様々な経験ができたこと、何より2人の子どもたちに出会えたので、後悔という気持ちは有り得ませんが )

この長い裁判期間は、自分自身を信頼してやらなかったことへの禊の期間でもありました。
離婚原因が何であれ、夫婦のことはどちらが被害者ということはないのに、「相手を裁こう」とする自分の心、そして、吐き気がするような怒りや絶望的な孤独感といった、自分の感情と向き合う時間でもありました。

私は不器用に生きてきました。
経営者として、人に関する失敗もしてきました。
傷つけた人の顔も何人も浮かびます。
でも、これまでの経験が、全てこれからの人生につながっている気がする。
これまでの経験を、人のために生かせと言われている気がする。

…自分の命を何に使っていくのか、方向は定まりました。

 

社会保険労務士は「先生」と呼ばれることが多いですが、私は先生ではありません。
心の大きな揺れ幅を経験している自分だからこそ、経営者も、従業員も、本来持っている良知に戻ってよりよい選択ができるように、一緒に悩める存在でいたい。
人間として、「じんわりとした温かさ」を皆で共有できる場所を創っていきたい。

離婚が成立した今、はっきり言えることは、自分の、そして子どもたちの人生が楽しみだということです。

沢山過ぎて困るくらいにやりたいことがありますが、理念を共有してくれているスタッフたちと共に、皆さんにご協力をお願いしながら、1つ1つ実行していこうと思っています。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
書きたいことは他にも色々ありますが、また追々… (^_^)

 

 

 

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